ヤマギシズム社会実顕地がめざすもの

ヤマギシズム社会実顕地がめざすもの

ことわざに「長者、三代続かず」とある。金持は三代だけで、あとは続かない。
一代目は苦労して財産を築き、二代目は親の苦労を知っているので、
その財産を守るが、三代目は贅沢に慣れて財産を潰すことが多いということだろうか。


人間同士が排他・共食い・取り合いや権利・義務で突っ張り合い、対立闘争する現状である。それゆえかせめて囲い持つことが唯一の安定の道だと思う人たちが身に余る多くの荷物を持ちすぎて、却ってその重荷の苦しさに耐えかねている、今の世相でもある。

 また世界状勢に目を転じると、今や地球資源を資本としか見ない資本主義が先進国から未開発国まで席巻し、所有しきれない空気、水、土地などを無駄遣いすることでの自然の生態系を乱す行為をはじめ、物余り不景気と物不足貧困、餓死者が同じ地球上で共存し、宗教対立、民族紛争、小国独立、権力闘争、排他運動等、今地球上は現世の悪の裏も表も露骨に輩出している。

 はたしてその道を進めば安定の社会になっていくだろうか。個人の幸福が得られるであろうか。今の経済成長がどれほど個人の幸福に役立っているだろうか。プラス、マイナス差し引きどうだろうか。

 人と人、人と自然が個々別々に離れた物質偏重の観念に立つ対立社会は終局において成り立たないのではなかろうか。また、成り立ったとしても、我及び我々がよくなろうとする個々人主義の醜悪社会の延長にすぎないのではなかろうか。

 事実生活には物がいる。豊満にいる。しかしその物は持たなくても、囲わなくても、所有しなくても、それらに関係なく、豊満にあればよい、自由に使えればよいのである。持ち囲う者にはつきものの、減る心配、取られる疑い、失う不安など、みずから突っ込んだ泥沼だ。物や地位の番人で一生を送らねばならないだろうか。否、もっと手近に、足下に青い鳥があった。

 今やヤマギシズム社会実顕地ができて、真の人間性とそれに即した社会のあり方の縮図を顕現しようとしている。もしこれが本当の人生のあり方であるなれば、人間の幸福の源泉であるなれば、それらを希求し模索する学者・実際家の共鳴や賛同を得ることとなり、あたかも池中に投じた一石のように、波紋が次から次へと伝播して、やがて国中、世界中そうなること必然である。

 その礎たらんとし、そのモデルたらんとして、生まれでたのがこの社会であり、そこに住む人たちの心からの希いである。