ヤマギシズム社会実顕地と現代社会

人類生活に花を贈るもの

 実顕地は、その地域の中での小社会を形成して、ヤマギシズムの方向に任意、運営されるので今の社会と遊離するように思う人もあるかも知れない。しかしそれは取り違いで、無辺境での全人一体社会をめざし、誰とでも何時でも、いつまでも仲良くやっていくのが本当で、そこに囲いが生じるならば、それはヤマギシズムの実顕地ではない。

 事業面では現法下での法人組織とし、現法制に即しながらヤマギシズム生活を営み、税金を含む社会義務にはそれぞれ協力し、親戚、近所つき合いや、官公庁、その他いずれとの交際や義務行為も心から行い、現社会の恩恵を受けて生きている関連をよく知って協調しながら、理想社会に発展させていこうとしているのである。

 この理想社会づくりは、一切の無理暴力を通さないで、万人ことごとく納得のうえで改変していこうとするもので、時間がかかるようでも、この方が後遺症が残らなくて仕上がりがきれいである。

 実顕地は、現状そのままの状態で出発し、その後、状勢の展開につれて、合理化し、内容を充実して、だんだんとヤマギシズムの実顕地らしい実顕地へ移行進化していくものである。その間その人のヤマギシズム理解や体得の段階により、各自まちまちであり、ヤマギシズムのあり方からすればほど遠いような一次元の事象もあるが、それを型にはめて形の世界で納めるのでなくて、本人の内面で気づいて心の底から改変できるよう、その気の来るのを気長に待つ場合もある。

 ひるがえってこの百年の世界の現状を見るに、かつて抜本的社会変革をめざしたロシア革命で史上初の社会主義国家樹立以降、自由主義国(資本主義国)と社会主義国との世界二大陣営の対立、二つの大戦を経て、東欧的社会主義国の内部崩壊、ソ連崩壊、中国の社会主義市場経済への移行等を経ながら共産主義的な社会づくりの失敗を人々に印象づけた。片や自由と見えて真の自由でなかった自由競争という名の弱肉強食・対立思想の資本主義的物質文明も、生産過剰による価値低下、貧富の差、弱者淘汰、景気不景気の変動等、限りなく難問題が発生し、真なる安定など望むべくもないだろう。

 こうした共産主義国家と資本主義的国家の共存態勢の動きを、昨今は総じてグローバリゼーションとかグローバル経済いった表現で語られているが、その中には人間社会はこんなものだとあきらめ気味に観念づけて、その世界からの脱却を怠り、ために本当は不自由な生活をしているきらいが無きにしも非ずであろう。

 今から五十年ほど前に、ヤマギシズムの提唱者・山岸巳代蔵は次のように述べている。

「所有の世界と無所有世界の二大分野。私有と共有の二大陣営は、幾多曲折はあるとしても、遠からず統一されるが、それで世界が一つになった、戦争もなくなったと安堵する人があるなれば、これは大変な謬見だと思う。

 そんななまやさしいことで本当の社会が構成されるものなれば、わたくしは疾うの昔に左右いずれか一方の陣営に走って、何ほどかそれの促進に協力し、すでに世界統一は完了さしていたことでありましょう。

 世界政府ができ、世界警察ができ、国家間戦争はなくなるでしょうが、あとに残る階級・団体闘争等、及び個人間の闘争を、警察権力や、根本理念の間違った規範での社会批判で屈従さして、無事平穏だと思い上がりはしないだろうか」(正解ヤマギシズム刊行に当たりて)

 こうしたどこまでも本当の本当を求めて、理想の社会づくりを求めて、日本の現行法、経済機構の中で、新しい価値観のもと「何も持たない機構」を一点打ち立てようとする試みは、どこまでも今の段階での、間違いかも知れないし幼稚だろうが、ひとも自分も信じないで、試そう、やってみようの心組みの連続が実態であり、そのことそれ自体が人類史、とりわけ人類生活に花を贈るものの一つであると確信しているものだ。

 間違いなく完璧だからその成果を期待してやるものでなく、趣旨やあり方や仕組みに賛成して実顕地の目的や経営安定度の可能性にかけるもので、間違いなからんとして間違い多い過渡期も責め合いなく一体で励み向上さしていくものである。

 それはヤマギシズム社会実顕地のあり方であり、そこに住む人の心情でもある。