

ヤマギシの村の交流の場です。自由に覗いてみてください。

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1901(明治34) 8月12日 |
滋賀県蒲生郡老蘇村大字東老蘇(現在の安土町)で四人兄弟の三男として生まれた。 |
1920(大正9) 19歳 |
この頃より三年間は、真理の探求、理想社会の探求に没頭した。「一九、二〇、二一歳のこの三年間は専心して、今掲げておる理想社会、本当の世界を究明したわけなんです」(『第一回山岸会特別講習研鑽会挨拶講演』より・第二巻掲載予定)「真理は一つであり、〝理想は方法によって実現しうる〟という信念を固めた」(『山岸会養鶏法』より) |
1922(大正11) 21歳 |
この頃、養鶏と出会い、「私が把握した社会組織のあり方を、鶏に応用実験すべく郷里に帰って養鶏に着手した」(『山岸養鶏の真髄』第二巻掲載予定より) |
1929(昭和4) 28歳 |
従妹の山根志津子と結婚 |
1931(昭和6) 30歳 春 |
京都市に転居。翌年にかけて「鶏界大不況に見舞われ、約二ヵ年養鶏に心身共に打ち込んで働」いた(『山岸会養鶏法』) |
1949(昭和24) 48歳 |
戦後、生活が年と共にきびしくなり、「心ならずも」自活農業を始める。 |
1950(昭和25) 49歳 |
「農業経営の合理化に資するために」「過去専業時代の養鶏法を農業に織り込んで、相互関係を一体に結びつけた形態に改組したものを」「農業養鶏と命名して発表」(『山岸会養鶏法』)
秋、京都府農業普及員和田義一がジェーン台風被害の実地踏査中、一区画だけ倒伏していない山岸の水田を「発見」。すぐに訪れ、心進まぬ山岸を口説いて講演会などに引っ張り出す。 |
1952(昭和27) 51歳 |
《山岸会》、《山岸式養鶏法普及会》が発足。 |
1954(昭和29) 53歳 |
『山岸式養鶏法・農業養鶏編(前編)』(名古屋・中禽社刊)発行。
11月、『世界革命実践の書』を執筆。長岡幸福研鑚会において、発表。 |
1955(昭和30) 54歳 |
〈山岸会式養鶏の急所と成功への道順〉、〈二つの幸福〉を発表。 7月、『山岸会養鶏法 増補改訂版』発行。 |
1956(昭和31) 55歳 |
1月、第一回《特講》に参加。その冒頭、夫婦で記念講演。 |
1957(昭和32)56歳 | 7月、〈出精平使より愛妻への手紙 私の旅日記〉発表。 |
1958(昭和33) 57歳 |
1月~2月、輸出用の卵粉工場の件がもちあがり、百万羽養鶏の話に進展する。 三重県三重郡菰野町で、大村公才(山岸の別名・自称)として百万羽科学工業養鶏について講演。 7月、『山岸会養鶏法 増補改訂・農業養鶏編』増補二〇版発行。装丁が更新された。 9月18日、三重県阿山郡春日村の《ヤマギシズム生活実践場 春日実験地》に、三三三三羽の雛が入雛。 |
1959(昭和34) 58歳 |
〈真目的達成の近道〉を発表。〈急進拡大運動〉を提案する。
7月、山岸会事件後、春日山を出る。 山岸に対して、逮捕状が出る。 10月、〈第一信─愛和〉、〈第二信〉原稿を送る。 〈正解ヤマギシズム全輯〉などの執筆を進める。 |
1960(昭和35) 59歳 |
1月、〈金の要らない楽しい村 ヤマギシズム生活実顕地 山田村の実況〉口述。
4月、『山岸会事件雑感』(著者名明田恵二だが山岸著)を発表。 4月、〈声明書〉を発表し、三重県の上野署へ自意出頭。(一〇月、起訴猶予となる) 7月、津で〈第一回理念研鑽会〉。以後亡くなるまで毎月、計十回近く持たれる。 10月、和歌山県有田郡の下六川にて実顕地造成に関する座談会。 3月2日、名古屋市八事園で〈社会式養鶏法について〉の座談会。 |
1961(昭和36) | 15日、〈理想社会を目ざして 一粒万倍に〉口述。
16日、名古屋市半僧坊にて〈ヤマギシズム社会式養鶏法〉発表。 5月1日、岡山県児島郡興除村・石田宅での会員六十名が集まっての研鑽会に参加。 2日、同興除村・有安市二宅での〈社会式養鶏法説明会〉に参加。 3日、引き続き〈一体高度研鑽会〉に参加。午後五時半頃、研鑽会の途中「頭が痛い」と別室に退き、その後昏睡状態のまま、4日未明、くも膜下出血で永眠。享年五九歳。 10日、春日山〈公人の丘〉に埋葬。 21日、春日山で告別式。 |